Profile

庄子 春治

[ショウジ ハルジ]

盛岡市議会 / 現職
庄子 春治

略歴

1951年
宮城県米山町(現登米市)生
1969年
18歳(大学1年生)のとき日本共産党に入党
1985年
都南村村議会議員に初当選
1992年
都南村が盛岡市に合併して盛岡市議会議員に
1995年
市議選で落選し、99年に返り咲きで当選、以来5期連続当選

Interview

取材日 2016/9/27 聞き手 吉田拳
お生まれはどちらですか?
庄子:宮城県の登米郡米山町(現・登米市)に生まれました。農村地帯ですね。18歳の時、岩手大学へ入学するために盛岡に住み始めました。
政治に関心を持たれたのは、いつ頃からですか?
庄子:大学1年生の6月に日本民主青年同盟という青年団体に参加して。で、9月に日本共産党に入党しました。入党したのは「世の中少しおかしいんじゃないの」と思っていたことの回答がここにありそうだと思ったからです。
特に、お金のあるなしで進学をあきらめざるを得ない人がいるという状況に疑問を持ちました。大変優秀だった中学校時代の親友が、集団就職で東京に行き、そこで定時制高校に通っていました。彼は大学まで行きたいという夢を持っていたのに「実際に働いてみると定時制高校に通うどころではない」と言っていたのを覚えています。その姿を見て、なぜこんなに格差ができてしまうのかということを考えました。
庄子春治
   平和の問題もあります。原水爆禁止運動などに参加するようになって、戦争と平和について考えた時に「戦争を起こすのは政治だ」という思いがあり、ここで学びあいたいと思って。かっこよくいえばですけどね(笑)
それが1969年、18歳の時でした。
1969年というと、青年の政治的な運動が活発になった時期ですね
庄子:そうですね。しかし、運動が活発になったのは青年だけではなかったように思います。翌年が1970年で日米の改定安保条約の固定期間が切れる年で、安保をなくそうという運動は非常に高揚していました。労働組合運動もありました。盛岡でも様々な闘争があり、医療関係だと「二・八闘争」と呼ばれる看護師の労働環境を改善する闘争もありました。
ただ、私が入ったときはちょうど東大の試験が中止になった年でした。ヘルメットを被って棒を持った人たちが暴力をもって大学を占拠したりと、ひどいこともありましたね。
当時のお話をもう少し伺いたいんですが、共産党は長く続く歴史ある党である反面、「共産党」というイメージだけで白眼視する人がいるのも事実だと思います。それは大学闘争のゲバ棒だったりヘルメットだったりという暴力的なイメージが残っているからではないかと、私なんかは思うのですが。
庄子:共産党や民青同盟に対する誤解や偏見が強くあったのは事実だと思います。それをひもといていくと、まず戦前からの流れが色濃く残っていたというのがあるのではないかと。戦前はご承知のように治安維持法があり、共産党は存在そのものが非合法でした。「世の中を変えよう」という思想自体が犯罪だったんです。手段ではなく目的が。
日本共産党の主張で犯罪とされたことは2つ。1つは「国民が主人公だ」という主張。もう1つは「戦争はだめだ」という主張です。特に韓国、中国に対する侵略戦争に反対していました。当時の政府は共産党だけではなく、少しでも進歩的な考え方したり、戦争に少しでも疑問を挟もうとする方々も治安維持法でしょっ引いて、ひどい目に合わせたわけです。そうして「共産党に近づくと怖いぞ」という恐怖政治をしいて国民を黙らせ、戦争に動員したんです。
その結果どうなったか。日本は戦争に負け、戦前、犯罪として弾圧された「国民主権」、「戦争反対」の主張は今の憲法に見事に書き込まれることになります。
   さて、戦後、日本共産党が活動を始めた時、若干の混乱がありました。ずっと牢獄にいた幹部たちが解放されて、世界を見ると中国やソ連がどちらも「共産党」という名前を付けて動いていた。今は違うんですが、当時の日本共産党には中国やソ連の共産党から「このように活動しろ」という干渉があり、それに従うかどうかで、党内部で混乱が起きたんです。
そのせいで一時期不幸にも分裂していました。その分裂した一方が中国やソ連のいうことを聞き、暴力革命に走ったために日本共産党は国民からの支持をすっかり失いました。しかし、その派閥は日本共産党の正規の機関ではなく、一方的に分裂していった側なんです。
庄子春治
   この時の誤りを元に確立したのが「どのような国のものであっても命令には従わない」という原則です。日本共産党は相手がソ連であれ中国であれ、アメリカであれ誰であれ自主独立の立場を貫くということを1950年代の不幸な時期から学んだのです。そして1961年に今の綱領の基本となるものを確定し、当面の目標を「資本主義社会の中での民主的な改革」としたんです。

日本共産党の立党の精神はまず「住民の苦難軽減」「侵略戦争反対」「国民が主人公」です。その精神で戦前を戦い、戦後は基本となるマニフェスト(綱領)を決めてそれをもとに活動するということに徹しています。その点では全くぶれていない党だといえます。
紆余曲折はあり、分裂した一部が間違いを犯してしまったという過去が、マイナスの印象を与えているということはありますけどね。日本共産党の中にも弱点があり、それが原因で生じた偏見がまだ残っているということはありそうです。しかし、その偏見も私たちの努力によって改善されてきているんではないでしょうか。
大学闘争などで暴力的になっていた人たちは別のグループだったと
庄子:はい。私たちはその暴力的な人たちのことを「ニセ左翼」と呼んでいました。ヘルメットを被ってゲバ棒を持っていた人たちですね。私たち民青同盟は「大学の自治を守るのは暴力ではない。議論を通じて民主的に解決するのだ」と主張していました。そのため、「ニセ左翼」からすると私たちは絶好の攻撃の的だったのです。そして、その敵意が共産党や民青同盟への攻撃に最大限に利用されました。
当時、自民党の中曽根さんという総理大臣もやっておられた方が「あいつらのことは泳がせておけ」と言ったそうです。適当に暴れさせてそれを共産党がやっていると宣伝すれば共産党にダメージを与えることができる。そのために「ニセ左翼」は利用されたという面もあったのです。
そうすると、庄子さんはゲバ棒を使ったりしたことはないんですか?
庄子:ありません。ヘルメットはどうだったかな?彼らが襲撃をしてきたときに。今あるかはわかりませんが、岩手大学の教育学部に201講堂というものがありました。そこで学生大会を開いたんです。その時、あれはすごかったなあ……ものすごい勢いでヘルメットを被ってゲバ棒を持った集団が襲ってきました。学生大会の参加者を守るために、スクラムを組んで、襲撃から身を守った。その時どうだったか? 記憶があやふやですが、ゲバ棒を持つなどということはありませんでした。
すごい時代ですね。そのような学生時代を経て、どんな経緯で議員になったんですか?
庄子:議員になったのは34歳の時です。僕は大学を中退してすぐに民主青年同盟の職員になったんです。でも給料は下宿代と食費と下着代を払えば終わりという額で。そんな生活が29歳まで続きました。29歳のときに共産党の事務員の仕事に移りました。
34歳になるとき、当時の都南村にいた議員が体調を壊して選挙に出られなくなったので、代理を出さなければならなくなりました。いろいろな人にお願いしたのですが結局決まらず、「じゃああなたがやりなさい」ということになって立候補したんです。議員になろうなんて考えたこともなかったんですが、まあ党の事情といえば党の事情で……。
庄子春治
   しかし、地方議会における議員の力は大きいので、そういった方向から住民の苦難軽減に取り組みたい、理念ではなく実際の住民の生活の中から出てくる問題に取り組みたいという気持ちはありました。議員というのはある意味住民の人たちの声を直接政治に反映させる最も身近な分野ですから、そういう意味でやりがいもあるのではないかと考えました。
長らく議員のお仕事をされてきて。こういう実績を残した、というのはありますか?
庄子:自分でいうのはなあ(笑)。議員として自分がやってきたことについてはたくさん反省もあるし、お役に立てたと思うこともたくさんありました。あるいは、市政をチェックするという点で、いくばくか役目を果たせたこともあったと思います。でも、そういうこというと自慢話になっちゃうし(笑)
全然自慢していただいて大丈夫なんですけど(笑)。そういえば(2016年)6月議会では放課後児童のケアについて話されていましたが、子ども問題にも取り組まれたんですか?
庄子:僕が都南村の議員になって初めてした仕事の1つが、学童クラブづくりだったんです。旧都南村の学校給食センターがあったところに今「子供の家」というのがありますが、その設立に関わりました。
僕自身、小学生と保育園の子供を持つ、子育て真っ最中の父親だったんです。妻と共働きで。そういう人たちがたくさんいた。その中で放課後の子供たちの安全をどうやって守るか、ということで学童クラブづくりに携わりました。その後も、乙部小学校や手代森小学校などの学童クラブを作る時にもお手伝いをしてきました。
都南村と盛岡市の合併後は、全国の事例を参考に、手代森児童センター内に学童専用室を開設するお手伝いもしました。学童専用室はその後、乙部や松園にも普及しました。子どもの問題は僕の活動の原点でもあるんです。
なるほど~
庄子:あのね、徹底的に市当局と論争をして私のほうが勝ったかな?と思うことも少しはあります!
そうなんですか(笑)
庄子:証拠を突き付けて不正を暴いたりね!こういうのは指折り数えれば結構あります。例えば中央卸売市場の卸売業者の不正とか。それを見逃していた市当局の問題とか。あとは、ある部署で「預け」があったことだったり。
庄子春治
「預け」ってなんですか?
庄子:ある部署が、文具とか物を買ったことにしてお金をお店に預けるんです。架空の領収書をきって。そこに貯金をしておいて、そのお金を自分たちの好きに使うんです。この「預け」は一時期全国的な問題になりました。
実は盛岡市のある部署でも「預け」が起こっているということでそれを正していただいたり。あとは、ある食品会社が下水道料金を不正に偽っていたという内部告発があったので、それを他の町と連携して調査しました。その結果、実に数億円の不正があったことが明らかになりました。
へぇ~。他にはどういうお仕事をされてきましたか?
庄子:例えば、私の住む三本柳地域では、雨が降ると水害になります。雨水が集まって北上川に流入し、内水氾濫を起こすんです。これは深刻な問題で、平成19年の9月豪雨が大災害になり、ゴムボートで住民が避難する様子が全国放送で流れたりしました。これをきっかけに提案したのが、北上川の水位が上がった時にこの内水を強制排出するためのポンプをつけていただくということでした。ポンプは平成22年度に整備していただき、それ以降、そのような氾濫の被害はなくなっています。

他にも、介護保険の認定を受けている方は、税金で障碍者控除を受けることができます。市が認定を行えば税金が安くなるんです。しかし、市民の皆さんはそのことをご存じなかった。だから、制度はあっても実際に控除を受けている人が数十人しかいなかったんです。今では盛岡市が控除の対象となる方に最初から認定書を出すことになっています。そのように制度を変えるよう提案して、当時、朝日新聞にも取り上げていただきました。その記事を見た関東圏の方が、住んでいる地域の市役所に行って控除を受けることができたとお礼のメールを送ってくれたこともありましたね。

このように、市民の声に耳を傾けて、その問題をどうやって解決したらいいのか頭を悩ませて、勉強して、調べて、そして市に提案して一歩でも前進する。そうすると、少しでも役に立てたかなと思いますね。そんなことを積み重ねてきましたね。
市民からの陳情というのもたくさん来るんですか?
庄子:そうですね。私の事務所ではいつでも無料生活相談を行っています。だから行政への要望事項から、多重債務などの生活上の悩みなどいろいろ来ますよ。例えば、川の氾濫や道の陥没といった行政に対する陳情はそのまま行政に報告すれば、とりあえずはよくて、議員の力は必ずしも必要ではないんです。でもね、私は「行政の弱点や矛盾は目の前のドブ板に現れている」と思っています。
   「道路が壊れているなんてことは些細な問題だ。議員は大局を見るべき」という論もあります。でも私は違うと思う。「なぜそういうところが放置されているの?」という疑問の答えにこそ行政の問題点が潜んでいると思うんです。「何度も市民が要請を出しているのに、整備が実行されない」ということならば、市民に対する行政の姿勢が問題です。「やりたいと思っているんだけれども、実は予算がない」ということなら財政の使い方の問題になります。現場の矛盾にこそ政治の矛盾点があるんです。だから、私は事務所にくる陳情を「私の仕事ではない」ということはありません。
ドブ板からなにから対応していくのが庄子さんのスタイルだと
庄子春治
庄子:そうです。そして、それをすることが一番の勉強なんです。私のモットーは「確信を持つまで徹底的に調べて、確信を持ったらきちんとやる」です。だから、一つの問題を解決するために、県北の農協に行ったり、他の市に行って関係者から話を聞き出したり、あるいは地権者を一軒一軒回って調べたり……またそういうのが面白いんだ(笑)そういうポイントポイントに触れるとファイトが湧いてくるというかね。役に立ちたいという意欲がわいてワクワクしちゃう。これをどのように料理しようか、とね。そういう思いでやってきました。
ただね、最近、なんというか、やり方がわかってきて近道をしようとして、詰めが甘くて失敗するというようなことがあってね。僕はそんな立派な奴じゃありません。反省しております……
ベテランだからこその反省もあるんですね。本日はありがとうございました
庄子:ありがとうございました

※ 本記事は平成28年度岩手大学Let'sびぎんプロジェクトの助成により制作されました。 ※
岩手大学Let'sびぎんプロジェクト