Profile

細川 光正

[ホソカワ ミツマサ]

盛岡市議会 / 現職
細川 光正

略歴

1945年
雫石生まれ

Interview

取材日 2017/11/15 聞き手 吉田拳
― 細川さんは、どちらのお生まれですか?
細川:生まれも育ちも雫石。御所ダムのあたりですね。
― 雫石でお育ちになったと。
細川:そうですね。小学校は安庭小学校ってとこなんだけど、ちょうど今年の4月に合併して、御所小学校になりました。「御所小学校」という名前の学校は全国に2か所、奈良と雫石だけだと聞きましたね。私が出た中学校も、もうなくなってしまって。合併でだんだん閉校していくのは、残念ですね。
― そうですねぇ。高校はどちらに?
細川:盛岡第三高等学校です。
― 雫石から通われたんですか?
細川:そうですね。だから、冬になると、僕の前に道はない僕の後に道ができる、というような。雪が降ると朝5時半頃にうちを出て、雫石駅まで歩いて行ったりバスで行ったりするんだけど。まあそういう時代でしたね。もう何年だ……? 半世紀くらい前だからね(笑)
― 学生時代はどんなお子さんでしたか?
細川 光政
細川:そうですね。だから、冬になると、僕の前に道はない僕の後に道ができる、というような。雪が降ると朝5時半頃にうちを出て、雫石駅まで歩いて行ったりバスで行ったりするんだけど。まあそういう時代でしたね。もう何年だ……? 半世紀くらい前だからね(笑)
― 学生時代はどんなお子さんでしたか?
細川:中学校の頃は軟式テニスをやってて。高校の時は盛岡三高の2回生だったので、創立当初だから、自分たちのやりたいものをやろうというのがあって。仲間たちと、新聞部とか生物科学部とか、いろんな部を作ったり、文芸部に誘われたりとか。文芸部では、高校2年生の時に岩手県の知事賞を詩の部門で取ったり、盛岡市内の高校生に呼び掛けて文芸サークル、盛岡一高を除いて全部の学校が来ましたけどね、をやったり。まあそんなこんなで、そっちにだけ溺れこんで、大学受験には失敗して(笑) まあその浪人中に高橋克彦さんと一緒に同人誌をつくったりしてました。
― へぇ~。その後はどうされたんです?
細川:結局ね、まあ自分の能力がなかったのと、親父の能力がなかったのもあって(笑) 私の頃は戦後のベビーブームでね。大学受験といっても20倍とかっていう状況があったりして。公立の大学に入る能力が私にはなくて、私立の大学、東京などに行くには親父の収入が足りなくて、そういう意味で諦めて、郵政省に入りました。
― なるほど、郵政省にご就職されたと。何年くらいお勤めになられたんですか?
細川:当時は地方貯金局って言ってたんですけどね。7年ほど勤務しました。その7年間のうちに、組合活動をやるようになって。当時は70年安保があったし、国鉄や郵政ではマル生運動(※生産性向上運動とも)というのがあって、マル生攻撃という形での労働者弾圧とか(があった)。郵便の区分の仕事してると背面管理といって、後ろに管理職が立って、区分が早いとか遅いとか、そういう監視をする。あるいは、特定郵便局というのがあって、郵便の仕事だけじゃなく局長の家の田んぼの仕事とか、子どもがいると子どもさんの世話までさせられるような職場実態があったんです。女性が生理休暇を求めると、本当に生理なのか証明しろ、というのが当時の管理職の常識の中にあったわけです。ですから、労働組合の中で、人間らしく働く権利を求めようという運動に発展したわけですね。そういうわけで、青年時代に感じた、職場の矛盾、同時に社会の矛盾、そういったものを改善していかなければならないという……まあ原点はそこだね。
― それが議員としての原点ということですか。
細川:うん。まあさっき、私の能力と親の能力がどうって話をしたけれども、私の親父は営林署に務めていて、朝の5時に起きて家を出て、自分の家の田んぼ畑の仕事をして、7時半頃に帰ってきて飯を食って、営林署の山に働きに行く。夕方6時、7時に帰ってきて、また仕事をする。秋には稲刈りしたものを片付けたり脱穀したりね。夜の9時、10時まで。朝の5時から夜の10時まで働いて、なんで子供一人大学にやれないのか。そんなに働いて、と。子どもの頃は、親の働きが悪いから自分が貧しいんだと思っていたけれども、言ってみれば、世の中の仕組みの中で、働かなくても裕福な人たちもいるし、一生懸命働いても貧しい人たちがいる。こういう社会の仕組みを変えなければならないんじゃない?っていうのを、働くようになってから感じて、同時に組合活動の中で学んで、というような。
細川 光政
― なるほど。1975年に社会党岩手本部勤務とありますが、社会党に入られたんですね。それで、党の職員になられたと。
細川:そうね。成人になって入党して、もうすぐ69歳(※当時)になるから、もう50年近く(所属している)。いわゆる社青同、社会主義青年同盟の岩手の委員長をさせていただく、ということで職場を辞めました。当時はストキャンストって言って、国鉄とかを含めてストライキを1週間やって、レールが錆びついたと言われるような時代でしたね。まあ、先ほど言ったような、社会の矛盾を変えなければいけないという青年の意気込みでね(笑)
― 議員さんになるキッカケというのは?
細川:私は党の専従職員で、選挙で(議席を)取らせる立場でやってきてましたから、自分はあまり議員向きじゃないなと(笑) あの、あんまり人前でしゃべるのも得意な方じゃないし(笑) と思っていたんだけども。まあだんだんと、政治のことっていうのは身近な地域から変えなきゃいけない、天下国家だけを論じてても仕方がない、ということもあって。身近な先輩たちも頑張ってるし、党の方からも市議会に出て頑張れと言われて。でも1回目は見事落選して(笑) それで、党の専従職は出馬する時点で辞めているから、党の中でアルバイトをしながら、新聞配りをしたりとかして頑張って、2回目で当選しました。
― そして今5期目ということですね。
細川:そうですね。1期、2期当選してね、3回目で落選して。っていうのはね、うちらのところ組織割れするでしょ。選挙やるたび票増えてるから、細川減らせってことになって(笑) 減らしたら組織割れでうまくいかなくて(笑)
― じゃあ途中4年もアルバイトをされたんですか?
細川:まあ、ちょうど社会福祉法人の理事長をお願いされてね。「暇になっただろうから理事長でもやってみないか」って(笑) 引き受けてみたら、非常に勉強になった。社会福祉の法律はどんどんと変わっていて、今まで措置の時代、つまり、国や行政のお金を委託されたような形で運営していたものが、これからは契約福祉になっていきますよ、と。障がい者の方からもお金をいただく時代になりますよ、と。まあ言ってみれば、国が福祉予算をできるだけ減らしたい、ということなんですけれども。
細川 光政
   本人たちに自己負担があるということは、しっかりと自己主張していくということになるし、上から目線の、行政の下請けとしての福祉サービスではない、対等な立場で、お互いが支えあっていく福祉サービスへと、自分たちも変わらなければいけない。まあそういう状況の中で、私が理事長としてやれることは何かって考えたときに、障がい者さんの工賃。当時、盛岡の人の工賃は月2000円程度ですよ? 「2000円ったら1日?」って聞いたら「いや1か月」って(笑) いかに工賃を上げるか、ということで、今までのような下請けの仕事だけじゃなく、自分たちで仕事を見つけ出していこうと。料理屋さんとかホテルで残った天ぷら油の廃油は、捨てるとなると産業廃棄物だから処理にお金かかるよね。それを買い取って、精錬してディーゼルエンジンの燃料にする、という事業を始めました。石鹸にするっていうのは前からあったんだけど、ディーゼル燃料にする事業は岩手県で初めてで。今では20数か所で、福祉施設とかNPOさんにやってもらってますけどもね。福祉の分野ですけれども、環境問題とセットでやったと。
― なるほど。今も議員としてそういった分野に力を入れていると。
細川:そうですね。環境問題については、議員になって1期目に取り組んだのが、盛岡市には当時、環境部ってのはなかったの。蝶々とか川の水とかっていう自然環境、それから、し尿処理とか、衛生関係の環境について、個別の取り組みはあったんだけれども。温暖化問題やエネルギー問題も含め、これから環境問題が大きくなっていくから、盛岡市に環境部を作れって発言をして、環境部を作ってもらった。環境についての提言には力を入れてきましたね。
― 2017年3月議会では「開運橋のライトアップ事業」についてご質問されてますね。
細川:世界糖尿病デー(※11月14日)にあわせて、ライトアップをしたいという団体から頼まれて、一緒に交渉しに行ったら、(市当局は)最初なかなかイエスという反応じゃなかった。(その団体が)金がないなら出すって言ってるんだから、いいじゃないかと思ったんだけども、(市当局は)今はメンテナンスがどうの、今やめてて再度やるにはどうのって(笑) いろいろあったのね。そういうわけで、市が一方的に企画するのではなく、市民がライトアップをしたいというのなら、どんどん奨励した方がいいんじゃないかと。特に開運橋って名前と、元日銀の盛岡事務所長さんが命名した「二度泣き橋」という別名……「二度泣き橋」って知ってる?
― それはどういった意味なんでしょう?
細川 光政
細川:1度目は「なんでこんな場所に飛ばされて……」って泣いて渡って来たけれども、帰るときは本当に人の温かい地域だということで別れるのが悲しくて泣く、っていうことで、二度泣き橋って呼ばれてて。全国から盛岡に来た人たちの中には同じような想いを持ってる人がいるし、あるいは、一つの盛岡に対するイメージとして開運橋があるわけですよ。それを活かすためにも、ライトアップを日常的にやってもいいんじゃないかと。例えば、恋人同士が自分たちの思い出の日に、自分たちだけのライトアップとか、そういうのでもいいし。そのために多少ね、500円でも何円でもいいからお金もらったっていいんじゃないの?って。
― なるほど。今のところライトアップはいつごろやってるんですか?
細川:夏と、あとクリスマス頃になるとやってるんだけれども。色を変える装置もついてるから、ブルーにしたりピンクにしたりとかもできる。乳がん予防のピンクリボン運動っていうのがあるでしょ。だから、そういう日にはピンク色のライトアップにするとかさ。それは一般市民も含めてね、今日は俺の誕生日だ、夫婦の結婚記念日だとかっていう時に、こうお願いしてさ、やるっていうのもいいんじゃない?って。
― なるほど。同じときの議会で「障害者差別解消法と市民啓発」についても質問なさってますね。
細川:ええ。社会福祉法人の理事長をやってみて、まだまだ市民レベルで障がい者との繋がりが薄いというか、何が差別か分からない、差別してるってのも分からないで発言しているって状態もあるし。差別解消法があること自体を知らない人も多くて、できて1年経ってもまだ25%しか認知されていないということがアンケートで分かっているし。(差別解消法が)できてすぐに相模原市の殺人事件もあったから、もっと啓発、宣伝をしてもらいたいということで。
― 相模原市の事件は、衝撃的でしたね。施設で働いていた人が犯人というのもあって。
細川:つい20年前まで日本には優生保護法があったわけだよね。障がいを持った子は生まなくてもいいよっていう法律が。今は、誰もが人間なんだから、障がいは個性なんだから、っていうふうに考えが変わってきたんだけども。それでもまだ、なぜ障がい者にお金を使うんだ、税金を使うんだって言う人がいる。例えば、若い人の中には正規労働につけない人がいて、もっと税金を私たちに振り分けてくれと思ってる。自分たち自身が差別されてるんだけれども、その違う方に怒りを向けてしまう、っていうかな。そういうことで障がい者への差別につながってしまう。でもね、誰でも年を取ったら障がい者になるんだから。今、私も脚を痛めてるんだけどね(笑) そういう意味では、障がい者も健常者も当たり前に一人の人間として生きれる社会を作っていく。それが私の想いです。
細川 光政
― 細川さんは現在、大館町にお住まいとのことですが、地域ではどんなことをされているんですか。
細川:大館町には、岩手県指定の縄文遺跡公園として「大館町遺跡」っていうのがあるのね。私、平成元年から町内会で文化部長をさせてもらってて。せっかく地域にそういう縄文遺跡があるわけだから、縄文人体験しようっていうことで、子ども会の役員やPTA会長と協力して、野焼き祭りっていうのをはじめましてね。やりはじめて30年になるかな。そういう地元の特色を楽しみながら、将来、大館町を離れていく子どもたちも、岩手なり盛岡に帰ってきたときに、あぁそういえばこういうことしたなぁ、と思い出が残せるようにと思ってね。今でも、同じく縄文遺跡のある大新町と一緒にやってますよ。
― 最後に、盛岡はこれからどういった街になっていけばいいと思われますか?
細川:進歩発展と、盛岡の自然環境の良さ、これらのバランスがとれた街にしていかなければいけない、と思いますね。盛岡は何といっても、岩手山はじめ北上川・中津川・雫石川といった自然の豊かさ、環境の良さっていうのがあるので。これを生かすと同時に、新エネルギー等含めて、働く環境、雇用環境を整備する。里山経済学っていうのもあるけど、そういった自然環境を生かしながら経済と結びつけた雇用というのも作りながら、盛岡に若者が住んでいけるようにする。と同時に、さらに発展的なものとして新エネルギー。今までエネルギーというと国策であったんだけれども、これからは地域でエネルギーをしっかりと管理しながらやっていかならなければならない。水素などの新エネルギーなどを使いながら、公害のないきれいな、誰もが安心して働き暮らせる盛岡になっていければなと思っております。
― なるほど。本日はありがとうございました。
細川:ありがとうございました。